秋に参拝した本能寺・2024年

11月上旬に京都市中京区の六角堂に参拝した後、北東に約10分歩き、本能寺を訪れました。

本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に攻められた本能寺の変で有名ですが、現在の本能寺は事件現場よりも東にあります。

買い物客で賑わう寺町通の商店街に建っているのですが、参拝者はそれほど多くないですね。

臥牛石と日甫上人のお墓

本能寺には、地下鉄の京都市役所前駅から南に2分ほど歩くと到着します。

寺町通に面する総門は、明治12年(1879年)に恭明院の門を移築したものとのことですが、恭明院がどういったお寺なのかわかりません。

総門

総門

かつて本能寺にあった26院の塔頭(たっちゅう)の一つが恭明院なのでしょうか。

総門をくぐると、左手に駐車場があります。

参道

参道

2024年7月に参拝者の駐車場の利用は中止となっています。

参道の右手にあるのは、宝物館の大寶殿です。

大寶殿

大寶殿

12月29日まで、「誰でも持てる日本刀展」が開催されていますよ。

入館料は700円ですが、ホテル本能寺の利用者は500円になります。

細い参道の先は広々としていて自動車が何台も停まっています。

境内

境内

これらの自動車は、お寺の関係者のものなのでしょうね。

どっしりと建つ本堂。

本堂

本堂

今回は中に入ってお参りをしましょう。

堂内は落ち着いた雰囲気で心が和みます。

本能寺の拝観案内によると、本堂は、天明の大火(1788年)で焼失した後、江戸幕府に再建を願い出ていましたが、許可されたのは50年後の天保11年(1840年)だったとのこと。

その再建途上、元治元年(1864年)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で薩長の砲撃の的となり再び焼失したそうです。

蛤御門の変の時は、薩摩藩と長州藩は敵同士だったので、本能寺は双方から砲撃を受けたことになりますね。

現在の本堂は、工学博士天沼俊一の設計により、昭和3年(1928年)に建立されたものです。

室町時代の粋を集めた木造建築だそうです。

境内の南側に並ぶ塔頭の前では、ナンテンが実をつけていました。

ナンテン

ナンテン

まだ、実は真っ赤ではなく、薄い赤色ですね。

大寶殿の東側は開山堂となっており、その近くには、小さな庭があります。

小さな庭

小さな庭

その庭には、臥牛石(がぎゅうせき)が置かれていますよ。

臥牛石

臥牛石

その名のとおり、牛がしゃがんでいるような形をした大きな石です。

ネットで調べたところ、加藤清正が寄進したもののようです。

以前は、この場所に臥牛石はなかったように思いますが、こちらも調べてみたところ、かつては境内の北側に置かれていたことがわかりました。

本能寺には何度も参拝していますが、臥牛石には全く気づきませんでしたよ。

境内の南東角に植わっている立派なイチョウは、まだ黄葉する気配がありません。

イチョウ

イチョウ

全身が黄色くなるのは11月末頃でしょうか。

このイチョウは、蛤御門の変の時に水を噴き出し、消火したと伝えられています。

イチョウの近くには、織田信長や本能寺の変で討ち死にした家臣たちのお墓があります。

そして、その隣には、大住院日甫上人のお墓もあります。

大住院日甫上人の墓

大住院日甫上人の墓

お墓の説明書によると、日甫上人は、本能寺の塔頭の高俊院第四世の住職で、池坊専光とならび称された江戸時代の華道の権威とのこと。

承応元年(1652年)頃より江戸で幕府や大名の大邸宅にふさわしい巨大な立花を創作して天才的造形力を発揮し、近衛邸の「槐記」にも「昔池の坊の専光や本能寺の大自(住)院など古今に超絶す」と書かれているそうです。

本能寺の開山日隆聖人二百年遠忌の際の生け花「二株砂物」は、高さ4.3メートル、横12メートルもある立派な作品だったようです。

一般人には、その名が知られていませんが、華道の世界では有名なんでしょうね。

そろそろ本能寺から出ることに。

11月上旬の本能寺は、普段より人が多めでしたが、騒がしさはありませんでした。

寺町や新京極で買い物をした際は、ぜひ、本能寺にも参拝してください。

この後は、誠心院に参拝します。

なお、本能寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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